3.真剣勝負

ようやく表現の鳥羽口に立つことができた、といえるが、やはり次に移る前に「試合」に対して決めうちを綴っておくしかないようである。
私たちは現在生活の中で「真剣勝負」という言葉を持っている。気軽に使ったりもする。私の個的な言語観から行くと、いつのころ捏造されたのであろうか、と考えてしまう。このトートロジーは何を意味するのか。この拙文の脈絡から行くなら、勝負とは元来真剣で行うのであり、この勝ち負けを死合いに重ねるものを試合とした。そう位置づけることで、ここで言う「無観客試合」を理解しようとしたのだ。繰り返すことになるが、試合でやり取りする勝負は真剣でこそ決着する、とするなら、なぜその試合を、駄目押しするように「真剣」と念押しせざるを得ないのか。それは「試合」が「試合」でなくなり、かつての「試合」に対する追憶と記憶が忘却の彼方から「真剣」という言葉を呼び寄せるのだ。不謹慎にもソシュール風に言えばランガージュの再配列が行われたのである。関係構造からいえば交通形態の変容なのだが、さてこれはわれわれ精神の、自然成長過程として変容したのであろうか?
別稿を起こさねばならぬ領域に突入することは避け、誤解を恐れず言い放つが、これでは『龍馬はいかない』であろう。私たちのが引き受けてある近代は、いくつかの世界大戦を持ってきたではないか。同時に連合赤軍「事件」はある。つまり、先日の、三年一組の教室に投げ込まれた、火薬入りの瓶を、どう演劇的に解決できるのかということである。残念ながら、われわれの演技論は、その爆発の前で佇んでいる。そして明確にいえるのは、火薬入りの瓶の対極にあるものが「無観客試合」という概念である。
「試合」から「無観客試合」への推移は、「勝負」から「真剣勝負」への変容性に重なる。この、「勝負」から「真剣勝負」への変容性の中にあるのは、われわれが引き受けてある近代、これらを上記のようにイデオロギー(=ドクサ)としてマニフェストするのはそう意味あることとは思わない。それはまた、換言して「勝負」から「真剣勝負」への推移が、文化成長過程として、われわれの持つ攻撃性や、テロリズムの非生産性を官許の元に去勢するという経済性のみで置き換えられたものだ、と言い放っても同時に意味がない。つまり「勝負」から「真剣勝負」への推移を歴史成長過程と位置づけしまう仮設は、「投げ込まれた、火薬入りの瓶」としてあるこの今を、無批判に追認するだけのこと以外ではないからである。
さて、これらはそうあるという前提である。話しを進めるには、これらのカテゴリーに対し身体を置くという作業である。当然それは演技論である。この表現行為という視座 で「無観客試合」の「観客」を見ていくことにしよう。
まずは「観客」という言葉が、スポーツと呼ばれる現代的な語彙の中に、どのように閉じ込めれれているのかを、炙り出す事になるだろう。かといって、スポーツ原論があると仮設して舞台表現という物事を進めてきたわけではないので、そうせず、むしろ、表現における観客という観点から接近して荒書きすることが、ここでの道筋である。つまりまっとうにそうせざるを得ないのだ。
たとえば、あるテレビを見ているとき、スポーツ中継アナウンサーの「高橋尚子選手が、沿道の観客に向かって、手を振り声援にこたえています。まもなく四〇キロを過ぎます」という発声をしたとしよう。ここでの、このスポーツ中継アナウンサーは状況を、スポーツ、一人のマラソン選手、観客という絡みで紡いでいるわけだ。一人のマラソン選手が観客に対し、状況をマラソンしている。では、観客は誰に対しているのか、といった細部に踏み込む勇気はないが、スポーツ中継アナウンサーは、一人のマラソン選手がマラソン競技を行っている状況に、もう一つの何かを付加したのだ。スポーツ中継アナウンサーが沿道の観衆を観客と呼んだとき、一人のマラソン選手は、表現という属性を背負ったことになる。スポーツが表現に成り下がった瞬間である。つまりスポーツは何かに成り上がることもできないし、成り下がることもできないという意味でである。このマラソン競技がイベントとしてあったのかどうかということは関係ない。スポーツはスポーツであり、表現は表現である。
ここでの意図を明確にするために「スポーツは表現か?」と問うことにしよう。それは表現であると同時に表現でない。トートロジと逆説のオンパレードだが、それはこうだ。スポーツとは対他性においては競技であり、対自性においては表現である。では表現とは何か?(文責・闇黒光)

【 注記 】ここまでの「1」から「3」は、2005年06月10日に『Blog 大阪演劇情報センター/更新記録・編集後記 ODIC』に綴られたものである。