1.「観客試合(しあい)」と「無観客試合(むしあい)」

演劇公演の舞台を、テレビ録画などで観ることがある。多くは『劇場への招待』とかいった番組なのだが、そこでは舞台を観るという感覚を捨て去ることを思う。これらの番組の多くは、当然のことではあるが、ある企画と意図によって、任意の部分が選択され、切り取られて、編集されたものである。この無観客試合は、それはそれである。
今ひとつの無観客試合を、テレビで観戦。タイで行われたW杯アジア予選、日本×北朝鮮戦のテレビ中継なのだが、この私の観戦という位置は、国際サッカー連盟(FIFA)によるのだろけども、無観客試合なので、いくらテレビで観戦していても、やはり私は観客ではないことになる。この事態からすると、観客とは試合会場にいる観衆のことになる。語の意味を予断すると、試合を衆目にさらさないことが、無観客試合と思われるが、背に腹は変えられず、あるいは、中継契約を解約できなかったのかも知れない。北朝鮮での試合チケットを予約していた人たちは、キャンセルの憂き目を見たのか。ともあれ、テレビの前で、ライブ中継がフレームで切り取られた全体であったとしても、私は観衆であった。
私は、といいながらもこの事態の経緯を、何もわかっていない。そして知らない。第三国で行うのは、ホームでやるはずだった、北朝鮮への制裁なのか。同時に、試合終了後の選手たちが危害が加えられるかもしれない事態を、それは「北朝鮮での観客暴徒化を理由に、ワールドカップ(W杯)アジア最終予選の日本×北朝鮮戦を第三国、無観客で開催するとした処分」であるなら、北朝鮮の観客に対するペナルティのツケを北朝鮮サッカー側が被ったのか。さらに、であるなら日本サッカー協会と、当日、サッカー場で観戦しようと予定していた人々が、割をくったということになる。ではこのような事態を招聘したFIFAは、どのような自己責任処分を自身に課したのか? 処分を断行することがそうなのか。
まあ、いってしまえば、これらのことはどうでもいいことだ。私が引っかかったことは、無観客試合という言葉の形容矛盾だ。この言葉の成立する前提は、試合という概念に、観客が含まれているからにほかならない。それは「観客試合」という言葉がないほどにである。にもかかわらず、無観客という形態で、試合を形容する。つまり試合でないものを試合といってしまう、自己矛盾がこの形容矛盾の本質だ。語の正意から行けば、無観客試合という言葉は成立しないのであり、仮にそのような形態があったとしても、すでにそれは試合ではない、ということである。多分、試合という言葉か、観客という言葉が曖昧であるのか、概念そのものをずらさざるをえない状況にわれわれはいるのだろう。(文責・闇黒光)