情報と演技について

以下の文は闇黒光氏の承諾のもと『月刊WING HOT PRESS 2001/12』
(2001年10月16日 ウイングフィールド発行/大阪)の寄稿文より転載いたしました

与太話の様相を免れ得ないが、情報と演技を演劇的に解決するには、次のように綴り始めるしかないので、お付き合いを願いたい。
さて、情報とはデータの自己実現形態であり、この意味で情報は、われわれの前に表現としてあるといっていい。仮りにわたしたちが様々な情報に取り囲まれているのでれば、多くの時事の中で表現に立ち会っていることになる。決意された具体の前では、息苦しくなるのがわたしたち人間というものであろうが、また同時に、ひとつの決意には、もう一つの決意を対置しようなどとする、ならず者を装うことを止めぬものであるから、息苦し くもあり、抜き差しならなくもなる。
安寧な日常でもあるまいが、実は、情報という表現の前で、存在を問う自問に破れ、自死に至らんとする美しい光景が氾濫するわけでもないのは、情報がする表現の質が問われているからでも、わたしたちのなんとも頼りのない想像力のなせる業でもない。それはまず、情報が情報として自立することがないからだ。情報は常に、何々についての情報という位置を譲ったことはない。情報は常に修飾語として表現に荷担する。
ここまでくると、おかしなもので情報はそれ自体として表現ではない、ということになる。しかしデータは情報として自己を表現する。情報は表現を装う。
わたしたちはこうして装った表現に対峙する暇などないので、情報を取捨選択することになる。やがて情報を求めるための情報が求められる。ついには情報を求めるための情報こそ情況論である、などということになると、そもそもそこにあった情報など、ついにはあなたの背中に張り付いている、などとなりかねない。いや、情報の商品化の速度に見合って、あなた自身が情報になる。これをわたしは情報の超デリダ化論と呼ぶのだが、まあ 、一つの円環を見る。
この総体が情報の演技論である。
これは演技論たり得るか?と、問うなら、仮に、物語とは情報のことである、という演技論を対置する勇気を、少なくとも演劇人は持たねばならない、という語り口は今でもまだ通用するだろう。そもそも演技とは演じる技のことではなく、方法それ自体であるから、論たりうるかということには肯首するが、情報の演技論は軽くそれを打っちゃる。論証するまでもなく表現は、情報に絡みとられて瀕死の呈であることは間違いない。
ここから出発するしかないが、これを日常と位置づけるか、表現が病んでいると位置づけるかで、大いに演技の思想性を分つことになる。いずれにしろ、この状況を凌駕しうる表現の幅が求められて久しい。そしてそれはわたしたちの演劇的な、思想的な現代的な課題である。
知ったふうな口を利くと、表現とは今を生きることではない。また明日を生きることでもない。それは明日という可能性を私権化する抜き差しならぬ試みである。このとき状況が表現であると嘯くのは、表現として無効であるばかりでなく、情況論として破綻している。
ついに物語が情報にたちかえることはないであろう。それほどは歴史の成長過程を信じてもいいであろう。何よりもわたしたちはそのように選択してきたのだし、多くの叡智は注ぎ込まれてきたはずである。
さて、ここまでわたしは「情報」を「小屋」と置き換えることで、この拙文を綴ってきた気でいる。そこでマニフェストすれば、未知座小劇場と大阪演劇情報センターは、情報を一般性に趨さず、最大限の私権化を図り、演劇そのものをデータ化する、が表現となっている。そうして-
すべてを、演技論で突破せよッ!     (文責:闇黒光)